厚い厚い厚い……。 憂鬱になるほど分厚い雲は、もはやその姿を消していた。 快晴、といえるほど、青い空が見えているわけではない。砂糖菓子のような白い雲が少し、太陽の光を受けてきらめいている。 だが、確実に、嵐は過ぎ去っていた。闇をまとった黒い雲は、姿を消していた。 頭上に広がるのは、どんよりとした曇り空ではない。さわやかな青空。 こんなに青かったろうか。デゾリスの空は。 この空を、最後に見たのはいつだったろうか……。 スレイは考えた。 考えねば思い出せないほど、それは遠い過去のことだった。 戸棚の中には、酒に加えて果汁の類も一通り揃えてあった。客が自分の好みで飲み物を作れるようにとの宿の主の配慮であった。 スレイは瓶のひとつを取り出した。ラベルなど見はしなかった。名前も種類もアルコールの度も、どうでもよかった。溜め息をついて、木製のスライド式の扉を閉じた。 カクテルを作るのは嫌いではなかったが、今はわざわざ炭酸水やら酒やらを混ぜて、その経過をゆっくりと楽しむ、という気分にはなれなかった。わざわざ面倒な手順をかけて美しいそれらを……味においても外観に関しても……鑑賞することが、ただわずらわしいだけに思えた。 深夜。 昨日までの轟音はない。 ただ、静かに雪が積もっていく。それは聴覚ではとらえられない波だ。 さすがにこの時間では、浮かれて騒いでいた村人達も、疲れて眠ってしまったろう。 スレイは、無造作に瓶の栓を抜き、グラスに注いだ。豊潤な匂いが鼻をつき、暗い黄金色をした液体が流れ出た。知っている匂いと色だった。五代目ルツを襲名する前から飲んでいる、デゾリス原産の酒。アルコール度の高いこの酒は、このままでは飲めない。心中、面倒だと悪態をつきながらも、スレイは再び戸棚に向かった。 コツ。 水の瓶を取り出そうとしていたスレイは振り返った。 遠慮がちなノックの音。 コツコツ。 「誰だ?こんな時間に」 いやに大儀そうな返答が自分の口から出た。 一瞬、全くの無音。 コツ……。 一回だけのノック。スレイには、何となく相手の正体が分かった。 扉の向こうから、ノックと同様に遠慮がちな声が聞こえてきた。いや、遠慮しているというよりは、こちらの意思を探っているような気がした。 「スレイ……」 予想通り、聞きなれた声。 「入っても、良い?」 ひと呼吸。 さあ、何から叩いてやろうか。まるで自動的に、頭脳と心が戦闘態勢に入る。 「村人とのバカ騒ぎはどうした、もう終わりか?」 まずはこれだけ、言った。扉の向こうのルディの表情が目蓋の裏に浮かぶ。 「バカ騒ぎって……」 少し狼狽した声。先制攻撃はそれなりに効いたようだ。 「バカ騒ぎじゃないよ!ガルベルクの塔にいた魔物を倒して、長いこと続いてた雪嵐をやませたんだから……そのお祝いだよ!」 「バカだから、バカって言ったんだ」 「何がどうバカなんだよ!」 今度は憤慨した様子。 スレイは静かに扉を開けた。 「こんな夜中に大声出すのがバカでなくて何だ?」 出来るだけ意地悪な言い方をしてやる。身長の差を有効に利用して、こちらが優位に立っているように見せかける。裏に隠れている作為を見抜けるほど、相手は大人ではない。 宿の備え付けの白いガウン姿の……少年、に見えただろう、知らない人間には。 青い髪を垂らした青年と、金髪の少年。相手も決して小柄ではないが、こちらは長身と言ってさしつかえない背の高さである。 ルディは悔しそうに、スレイを見上げた。 「じゃあ迷惑にならないように、さっさと入れろ!」 外開きの扉とスレイの間とを、ルディは器用にすり抜けた。スレイの止める隙はなかった。一連の動作はとても滑らかにつながっていた。 好きにさせてやるか。わざわざ道理を説くのも面倒だ。 スレイは扉を閉めた。 ルディは勢いづいて部屋の最も奥の窓辺まで進み、ようやく止まった。壁を向いたままだが、背から怒りがにじみ出ていた。だが、ルディのそれは持続しない。一瞬の感情。これまでの経験から、それは分かる。 「勝手に来ておいて、入れろとは何だ」 むくれた背中に向かって、スレイは言った。 背を向けたままのルディの肩が、少し丸くなった。ルディの腕が、ルディ自身の体を包み込む。 反論の方法を考えているのは容易に分かった。だが、正しいのはこちらだ。きっと相手は上手い言葉をつむぎ出せない。 けれど、少し待ってやっても良い。幼稚な理屈で返してきたら、倍にして迎撃してやる。 「良いだろ、来たかったんだから」 後ろを向いたまま、やっとルディは言った。スレイは腕を組み、大きく息を吐いた。半分はわざとだ。 「来たい時に来て、入りたい時に入る、か?それで、騒ぎたい時に騒ぐか。こっちの都合は考えずに?」 ずっと考えていたことがあった。 ここしばらく……いや何年も、ルディを勇者として認めたその時から、完全には拭い去れなかった不安があった。 疑問と言っても良い。どうしても理解出来なかったこと。今、それが解けるかもしれない。 こういうのを好機と呼ぶのか。頭の中でスレイは一番効果的な言葉を探した。 「ちょうど良い、ルディ、ひとこと言っておいてやる」 ルディが半身だけ振り返る。 「これで終わりではないんだぞ?」 その言葉を咎めるように、空色の瞳がスレイを見つめた。だが、スレイは続けた。 「ガルベルクの塔の魔物を倒したからと言って、雪嵐がやんだからと言って、事態は好転しちゃいない。いや、むしろこれからだ。これから、また新たな戦いが始まるんだ。お前、そこのところ、何か勘違いしてねえか?」 |
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