今夜は三日月らしい。
ディオスは空を見上げた。細い月が、頼りなげに中空に浮かんでいる。

町は静かなものだ。
主だった建物の近くには不夜灯がともされているが、それもぼんやりとした淡い光を放っているに過ぎない。
ラフェルの町には詳しくないが、仲間の盗賊に言わせれば「活気があった頃とは比べ物にならない」らしい。

現在は、バーラル・ラーカス・リグリアの3国のみならず、コルシアなどの小国をも巻き込む戦争の真っ最中。こんな情勢で騒げるほど、この町の住民は呑気ではない、と言うことだろう。

ディオスは唇を噛んだ。
この狂った歴史の流れを、早く修正しなければ。
何日も前から、胸のうちでくすぶっている感情だ。
最近、この憤りのせいで眠れない夜が続いている。目を閉じると、自分の心を焼く光景が浮かび上がってくるのだ。
女も、子供も、進軍の邪魔になる者は殺してしまえと平気で命ずる王。泣き叫ぶ一般市民。戦いを知らないから、逃げ惑うしか出来ない者たち。
守るべき存在なのだ、彼らは。
こうしている間にも、どこかで、殺戮が行われているかもしれない。自分のいないどこかで。
早く戦いたい。
ひとりでも多く救うために戦いたい。
もちろんそれが不可能であることは知っていた。自分ひとりでは限界があるし、連日の戦いで疲労した体は重い。
今日はゆっくり休もう。出発は明日の朝、日が昇ってからだ」
休息が必要だ。そう判断した17歳の隊長は、隊員に命令を下した。隊員の誰も異議を唱えなかった。
自分も、今日はゆっくりと、疲れた体を回復させるつもりだった。
けれども、どうしてもベッドの上で寝付けず、こうして酒を飲みに夜の街に出て来たのだった。
これもある意味、疲労回復、ストレス解消だよな・・。言い聞かせるようにつぶやく。
とにかく酔うために、同じ種類の酒は2度は注文せず、ジョッキで頼めるものだけを喉に流し込んだ。
元々酔うまでにかなりの量を必要とする体質である。7・8杯は飲んだだろうか。
それでもまっすぐ歩ける程度にしか酔わない。
酒場も閉まってしまった。
2軒目を探す気にもなれず、ディオスは宿舎に戻ることにしたのだった。

辺りは暗い。
漆黒の闇の中に、小さく光るものがあった。だが、それも方向を変えるとすぐに見えなくなり、風のように走り去った。
猫の目が光って見えたのだろう。
残ったのは、不夜灯のオレンジ色の明かり。
黒い背景に浮かび上がる、弱い明かり。
何となく、放射状に広がるオレンジ色の光を目で追ってみる。それは無意識の行為だった。
すると、その先に暗いがとりどりの色彩があった。
昼間であれば、鮮やかな絵が浮かび上がったであろう。
ディオスは注意深く、光をかすかにはじき返している平面を見つめた。
「ステンドグラス・・?」
黒い枠線に分断されながら描かれているのは、女神ルシリスの姿だ。流石に見間違えるはずのない、世界に等しく慈悲を与える光の女神だ。学問にうといディオスでも、それくらいは分かった。
どうやらここは教会らしい。

教会と言えば、思い出すのが、故国での建国記念の式典だ。
当然、国王を始めとする王族が列席するのだが、そのほかに大司祭など教会のトップも参加する。
世界に恩恵をもたらす慈愛の女神ルシリスへの祝詞をあげるために。
それは、神学など学んだことの無いディオスには半分も理解出来ないものだった。
神を冒涜するつもりなど毛頭ないが、意味の分からない儀礼的なものに敬意を払うには、ディオスはあまりに戦場慣れし過ぎていた。
戦の現場は、常に実利主義だった。
役に立たないものは、余儀なく存在を否定された。
だから、式典の日はいつも外回りの警備を担当していた。長い祝詞を聞かずに済むよう。
自分が将軍という肩書きを持ちながら、記念の式典に参加しない理由を副将に尋ねられたことがあった。正直に話すと、信心深い副将は眉をしかめて呆れていた。
それも、国を捨てた今となっては、もう懐かしい過去の話だ。

ディオスはほの明るい、ステンドグラスを通して漏れてくる光に目をやった。
何気なく、近づく。
中から、低い声が聞こえてきた。
ディオスは、おや、と歩みを止めた。
聞き覚えのある声だ。
万人の聴覚から逃れるように、遠慮がちに聞こえてくる声は、1度だけ聞いた、大司祭の祝詞に抑揚だけは似ていた。誰かが祈っているのだろうか。
祈りの声の主が、自分が思い浮かべた人物と一致するのかどうか。確かめてみたくなり、ディオスは靴音を抑えて、入り口に近づいた。
踵の高いブーツは、気をつけないと高い音をたてる。
なるたけ静かに、けれども相手に自分の気配が感じられるように、そっと入り口まで進む。
祈りの声がやんだ。
相手が、自分の存在に気付いたか。
力を込めずに、ノックする。そして扉を開けた。夜にふさわしいように、静かに。


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